海中に80年 大正の砦

アジ釣りの好きなお客様なら馴染み深い第3海堡。今、東京湾口の航路安全のために、撤去されていますが、2/19の読売新聞の夕刊に記事が出ていたので、ちょっと紹介します。以下、読売新聞より抜粋。写真は取り敢えず、新聞のものです。次回、写真を撮ってきます












撤去進む横須賀沖・第3海堡

フジツボやカキ殻がびっしり付着した分厚いコンクリート。青く錆びた蝶番が80年の歳月を超えて生々しく映る。東京湾口の航路安全のため、神奈川県横須賀市沖で撤去が進む、第3海堡で先月、巨大な構造物が引き上げられた。かまぼこ形の兵舎で、幅19m、奥行き12m、高さ5m、重さ約1200トンある。
第3海堡は首都防衛のために築かれた3つの人口島の1つで、砲台を備えていた砦だ。日清戦争開戦2年前の1892年(明治25年)に着工され、1921年(大正10年)に完成したが、わずか2年後、関東大震災により水没した。昨年、米国の公文書館で海堡の建築技術が輸出されていたことを示す資料が発見された。東京湾学会の高橋在久理事長は「貴重な文化財。恒久的な展示、保存を」と訴える。国土交通省・東京湾口航路事務所では、横須賀市の海岸にある作業所に展示場を設け、兵舎や探照台よ砲弾倉庫などとともに、3月10日までの予定で一般公開している。予約制。問い合わせは同事務所(046・828・8310)へ。

以下は他のホームページよりお借りしました。

建設に30年、関東大震災で沈下してから80年、いま撤去へ向けて
東京湾第三海堡は、東京を防護するため、東京湾口の海中に設けられた砲台設置のための人工島です。明治中期から大正10年(1921年)の竣工まで、巨額の工費をかけ、幾多の貴重な人名を犠牲にし、大変な苦労をして建設されました。しかしながら、竣工してからわずか2年後、関東大震災によって倒壊し、海中に没してしまいました。
その後の第三海堡は、半ば暗礁と化し、東京湾口における障害物として多くの海難事故を発生させました。そこでこのたび撤去工事が開始されることになりました。
第三海堡の建設は、海洋港湾工事史上、壮大な実験としてその後の海洋港湾技術に多大な経験と教訓を与えたのです。
そこで、第三海堡はどのようにして造られたのか、どのような貴重な経験と教訓を与えてくれたのか、その技術史上の意義を見て行くことにしましょう。

東京湾第三海堡はどのようにして造られたのか 
韮山(ニラヤマ、静岡県)の代官だった江川太郎左衛門(エガワタロウザエモン、1801〜1855)は、天保10年(1839年)に観音崎〜富津岬を結ぶ線を最重要な防御線とし、これを護るために観音崎・走水などに台場砲台を設けるほか、富津岬の海中に台場を建設することを提案しています。
東京湾海防計画
明治新政府は、帝都「東京」を護るため、東京湾海防計画に取り組むこととなりました。東京湾海防に属することは軍事機密であったため、多くのことは伝わってはいませんが、幸い大日本帝国陸軍築城部:「東京湾要塞築城史」が残されておりますので、これから経緯を辿って見ることにしましょう。
西田明則の「東京湾要塞建設論」
明治11年(1878年)7月30日、陸軍参謀局内に海岸防御取調委員が設けられました。その委員になった工兵大尉:西田明則(1826〜1906)は、「東京湾要塞建設論」を山県有朋あてに提出しました。ここで、火砲の射程の関係上、従来の防御策のみでは東京湾口の防備をなし得ないとし、富津岬〜横須賀の海中に3個の海堡(海上砲台)を築造することを提案しています。
第三海堡の建設
第三海堡は、第二海堡より南2.611m、走水低砲台より北2.589mの位置にあり、水深が39mもあって潮流も激しく、建設工事は明治年間における軍事土木最大の難工事になりました。(社)土木学会:「明治工業史 土木篇」(1929.7.31)に第3海堡建設に関して詳しく述べられていますので、それを見てみましょう。
第三海堡の建設工事は、徹頭徹尾、波浪との闘いに終始しました。工事は、明治25年(1892年)8月の捨石から始まりました。捨石の上に割栗石を積上げ、満潮面上はコンクリートで固めて堤防を築きました。堤防の内部には砂を充填しました。しかし、このように苦労して築いた堤防も明治32年(1899年)10月、明治35年(1902年)9月の高波によってあっけなく破壊されてしまいました。度重なる高波による破壊に対して100〜150トンのコンクリートブロックを据え付けましたが、これも明治44年(1911年)7月の高波によって破壊され、5名の行方不明者を出す被害が発生しました。そこで、長さ20m、高さ20m、上幅4m、底幅6m、重さ1.500トンの鉄筋コンクリートケーソン13函からなる防波堤を前面に据え付けることとしました。ところが、大正6年(1917年)9月の高波により6函は移動し、6函は傾き、原位置にとどまったのはわずかに1函という惨状を呈しました。これに対して重さ35トンのコンクリートブロック713個を投じ、ようやく安定を得ることが出来ました。第三海堡は、明治45年(1912年)3月に竣工予定でしたが、ようやく竣工したのは大正10年(1921年)のことでした。明治40年(1907年)までの工事費だけで249万円(現在の価格で約140億円)もかかっています。第三海堡には、15cmカノン砲4門、10cmカノン砲8門の大砲と探照灯などが装備されました。面積は34.000平方メートルでした


平成17年2月27日  読売新聞より
 2/27、神奈川県横須賀市沖の第3海堡から、長さと幅16m、高さ約5m、重さ約1500トンあるかまぼこ形の兵舎が海底から焼く82年ぶりにクレー  ンで吊り上げられました。揚げられた兵舎は航路から外れた場所に沈められ、また漁礁として再利用されます。