海の中の忘れ物


Part1

今年(2005年)の3月、柴漁港の底引き漁船に戦時中のものと思われる、飛行機のプロペラが網にかかりました。
自分が子供の頃は不発弾も入った話は聞きましたが、このところ、そのような話も無く、現物を見てビックリしました。
大きさは、直径4m前後、4枚のプロペラで、そのうちの1枚は既に取れて無くなり、3枚が残っていましたが、すべて、
墜落した時の衝撃で後方に、複雑に曲がっています。横浜市の博物館の方が、お客様にいらしたので、
写真を撮って、調べてもらいましたが、はっきりとは分からないが、雷電、もしくは、B-29のものではないかということでした。
自分はもしかして、ゼロ戦かなと思っていましたが、ゼロ戦は3枚プロペラだそうです。この時期の戦闘機の残骸は
当時の資料をみても、膨大にあるようです。自分には全く関係ないと思っていた戦争ですが、このような物を見ると
胸が痛み、現在の平穏な生活が本当にありがたく思えます。また変わった落し物がありましたら、ご紹介致します。






左 雷電  中央 紫電  右 B-29


雷電、紫電の画像は松葉 稔様の「精密図面を読む」よりお借りしました。
B-29は画像はUSAF・NASA提供の物をお借りしました。



Part2
平成17年8月、再度、小柴の底引き船に綺麗な三枚ペラがかかりました。前回とは違って、全く損傷も無く、すぐにゼロ戦の
プロペラと判明しました。当時の人に聞いたところ、戦後すぐ、アメリカ軍によって、無傷のゼロ戦が解体されて海に捨てられた
との情報がありました。前回のプロペラと同様に港の片隅に置かれていましたが、9/1に滋賀県遺族会の会長が引き取られました。
以下、平成17年9月2日の読売新聞からの抜粋です。

2005年9月2日 読売新聞より
戦後60年の邂逅

第2次世界大戦中、旧日本軍の主力戦闘機だった零式艦上戦闘機(零戦)のプロペラが横浜港で見つかり、1日、プロペラのない
零戦を「戦争遺物」として保管・展示し、平和の尊さを訴えている滋賀県遺族会長に譲り渡された。
海中から引き揚げた漁師たちは「戦後60年に見つかるとは何かの因縁」と話し、遺族会長も「特攻に使われた零戦は命の大切さを
伝える力がある」と感激している。

 横浜市金沢区の漁師斉田和義さん(55)の底引き網に、フジツボのこびりついた三枚羽根のプロペラが引っ掛かったのは8月18日朝。
斉田さんは「沈んでいた長い歳月に意味づけをしてあけだい」と寄贈先をさがしていた。
 戦時中に零戦を製造した三菱重工業の名古屋航空宇宙システム製作所に勤める岡野允俊史料室長によると、零戦のものに間違い
なく、横須賀の海軍が戦後、機体を米軍に渡す際、海に捨てられたのではないかという。
 プロペラを譲り受けたのは、滋賀県遺族会長の山田利治さん(69)(滋賀県東近江町)。出征した父親をフィリピンでな亡くした山田さんは
戦後、南方の戦跡を何度も訪れた。1994年、パプアニューギニアのジャングルに放置された零戦の残骸を目にし、「戦後の残酷さを零戦
という"無言の語り手"によって伝えていきたい」と考えるようになったという。
 9年前、茨城県で発見された全長8.5メートルの零戦を地元収集家から買い取り、滋賀県が2008年着工を目指す平和記念館に展示
してもらおうと自宅に保管。自宅近くで一般公開も試みている。ただ、プロペラがないため、山田さんは新潟や沖縄など全国20か所以上を
探し歩いてきた。
 斉田さんから引渡しを受けた山田さんは「このプロペラが、今も各地に眠る多くの遺骨や遺品に『早く気付いてほしい』と訴えている
ように思えてならない」と話している。


   
前が零戦のプロペラ 後ろは前回のプロペラ
とっても綺麗ですね。



零戦の画像は松葉 稔様の「精密図面を読む」よりお借りしました。